集中から瞑想状態に入るためには、努力がいるのですが、よく言われるようにその努力にも逆説的な面があります。
願望を手放す
しばしば私たちは力ずくで心を静めようとしたくなりますが、この種の努力は確実に問題を引っかき回すような結果しか生みません。そこでこの種の無理強いをやめると、自然と集中力が生じてきます。 (『手放す生き方』 158頁
また第一の仏弟子アーナンダの逸話として
アーナンダは阿羅漢果を得ていなかったので、彼は阿羅漢果を得るため、夜を徹して修行をしようと決めました。しかし、真剣に修行を試みたものの、結果は得られず、ただ疲労困憊するばかりでした。もはやこれ以上いかなる努力もできないと感じたアーナンダは、少し休もうと思い、ベッドに向かいました。そのとき、彼の頭が枕に触れようとするや否や、彼は阿羅漢果を得たのです。 (同上)
またヨーガスートラの解説本にも以下のようにあります。(ダーラナー=集中、ディヤーナ=禅定という意味です。)
無努力
あなたは、ダーラナーにあらゆる努力を傾ける。そしてディヤーナではそれが無努力となり、あなたはただ、自分が瞑想状態にあることを知りつつそこにいるだけである。 (『インテグラル・ヨーガ』284頁)
このように集中の訓練とともに、強引さではなく、リラックスした柔軟さが求められているのです。いま自分でも最も興味もあって必要にかられるポイントでもあります。