bosats 音 note

ギターにハマって困って学んで

芥川龍之介「歯車」(1927)に音楽をつける試み

うちの社長と相談の上、かつての名作に音楽をつけるシリーズをやろうということになりまして、

この作品がパッと浮かんだので、再読してみたのですが。



今日的!


すごいのは、今読んでも仮名づかい言葉の言い回しを除くと、全く今の話としても読めるということ。


90年前の私小説にも関わらず、専ら心理描写と、主人公の主観から見た都会の生活などが主なので、


文字で読むとなおさら、映像のようにその時代のディティールがそれほど頭に浮かばないのもあって


すごく今日的に読めるのに驚きますね・・。




まず、薬の・・当時の睡眠薬とかの名前がやたら出てくるし、具体的にその時読んでる本とか、生活パターンが


垣間見えるわけですよ。僕が、ここで処方薬について書いていることとかと大して変わらないじゃない(笑)




Jホラー的 暗さ


断章のような短い文章の断片で、番号と見出しで書かれています。この雰囲気どっかで見たことあるなと


思ったら、ホラー映画の呪怨の初期作品がこういう形式をとっていますね。



あれは、人物ごとに注目して、時系列もそれほど一定じゃないエピソードを重ねていく感じ。



これは、芥川の最晩年。後期に位置する作品ですが。


この時期の私小説は主人公が苦悶する姿が、ほとんどホラー小説に近いと思っていて。その辺の共通点を感じています。



感情の吐露がこれだけ出ていて、断片的なのに・・構成が破綻せずに読めるのは、それまでの芥川の古典モチーフを使った


小説の技術的な積み重ねの賜物なんでしょうか。





個人的に昔は好きじゃなかった

中高生になると学校の国語の授業で、それこそ古典モチーフ期の、「杜子春」とか「蜘蛛の糸」・「芋粥」あたりに触れますが。


読まされてる感があったのもあって、全然面白いと思わなかった。


古臭くてやだねーくらいに思っていた(笑)




でも大人になってから、私小説的な作品に触れたら。全然雅やかでも、教訓的でもなくて


本当にもう生きるのが嫌でしょうがなくなっているひとりの人間としての芥川龍之介が垣間見える。


こちらの方が感情移入して読めるので、それから好きになりました。





中身と音楽

さて、作品のみーなかに、中身に触れますと!



まず主人公=芥川は、ひたすら憂鬱に暮らしている。


偶然の中に不吉な暗示を読み取ってしまう。その上、タイトルにもなっている「歯車」の幻視・幻覚を見る。


そして有名なドッペルゲンガー登場で、人からもあなたをどこそこで見たという話を何度か聞かされ、ドッペルゲンガーはオカルト説だと死


の予兆ってことになってますので、ますます不安を深めると。




苦悶&苦悶。やっててよかった苦悶式な小説なわけですが。



これだけ、一見意味のつながらないような、日常の会話の断片をつなげながら、


全体としてイメージが読み手になんとなく入って来るのが、凄みと思ってますね。




ドイツ表現主義とかにも近い。また、映画だとフィルム・ノワール的に、こう虚無感と絶望を淡々と形にするというのが


1900年代前半のひとつの流れだし、今もノワール的表現は脈々と受け継がれているので。そこが今日的と感じる部分かもしれませんね。


音楽だとシェーンベルクなんかとちょうど生きている時代が重なってます。




シェーンベルクの音楽つけたら合うねこれ・・・


自分でつけるのもおこがましいんですが、でももう大体骨格作っちゃったのでやりますね^^;



表現主義的な暗い感じをあえて回避して、フラットな曲にしたいと考えて作っています。現代・現在に置き換えて見るとその方が


あってる感じもします。


世の中に絶望とか苦悶とかって溢れていると思うんですが、それが重く見られもしない。「メンヘラねはいはいワロスワロス」的な


日常的に処理されちゃうところもあるので。



自分から見た苦悶感というのをとらえなおして作って見たいかなと、思ってる次第です。




歯車―他二篇 (岩波文庫 緑 70-6)

歯車―他二篇 (岩波文庫 緑 70-6)

歯車

歯車

たまたま『羅生門』(1950)を見ていたら

こっちだった!


昼間流して横目に見ながらピアノの練習をしていたんですが(↩︎集中しろよ)



すぎやまこういちの「ドラクエIII」〝ジパング〟の元ネタはこっちでしたね!




早坂文雄 作のメインテーマ。そして、山のシーンでかかる曲はなぜか中近東モードに近くて、



こちらはたぶん〝ピラミッド〟のシーンの音楽に近いですね。ドラクエIIIは1987年なので、37年越しのインスパイアです。


ファーん♩ていう日本の雅楽のような、ピッチの間を行き来するフレーズは、使い方を変えていくと中近東の雰囲気に近きますね。




さらに前世代へ

これをさらに前の世代でやっているのは、ドビュッシーです。「版画」(1903)の一曲目、パゴダとか。



この前の「前奏曲集2巻」のカノープとか、印象主義・・というよりドビュッシーの個性の部分がもろにでた時期、中期〜後期の作風によく出てきます。



「牧神の午後の前奏曲」以降のオケ作品でも、「夜想曲」・「海」など。


木管にこういうフレーズをよくやらせているような気がします。





半音音階的なフレーズ・五音音階・全音音階と様々なモードもモチーフとして使われるけれど



コードはモダンなフランス近代の組み立て、からさらに一歩進んで。平行移動(クラシックの禁則!)とか、5度とか4度の堆積など。



だから僕が子供の頃、なんだこのボンヤリした音楽は?と思ったまさにその印象が完成された時期。




なので、早坂はドビュッシーとかサティをよく研究してるなーと今になるとわかりますね・・。


ここは、50年近い時間経過のあるインスパイアか。




黒澤映画はそんなに・・


実は昔そもそも黒澤映画あんまり好みじゃなかったので、音楽もなんとなく聞き流してました(^^;;



「用心棒」は高校生くらいのときに見たけど、全く覚えておらず。



七人の侍」は面白かったけど、三船敏郎が何言ってるかわからず(笑)



「生きる」は自分が最悪にやばい時期だったので、泣きました。けど今見たらわからない。



で、「羅生門」も三船の笑い声が終始ノイズになっちゃって、(たぶん三船敏郎が苦手なんだ(笑))内容が入ってこない。



いくら海千山千の荒くれ者とはいえ、こんなずっと笑い続けてる奴いないよって思っちゃって。



三つ巴のキャラクターごとに感情の対比をはっきりさせなきゃならないということなのかもしれないけど



なんであんな演出にしたんだろうと思いました。




それはともかく!


早坂の音楽はドビュッシーから日本の旋法に、持っていけると思ったアイデアがさすがだなと。




1900年代前半は民族主義と近代音楽を結びつけようとした時代でもあったように見えますから、伊福部昭もそうだし


武満徹もそうだ。みんな相当苦労して、苦悶して作ってた感じがしますね。



和魂洋才じゃないですけど、もうコアな部分での宗教から、文化から違うとこに。



「和魂」を入れるなんてもう元からだいぶ矛盾してるんじゃないかな。



なので、敬愛する坂本教授が、和楽器使ってた時期のも全然耳に入ってこないですよ実は。



ゲームの Seven Samurai の曲とか、Out of Noise とか。



「学生の頃、武満の日本回帰に反発したって散々言ってたじゃない!?」って思って聴いてました。



早坂はでも耳に入ってくるんだ・・なぜか?理由ははっきりしないけど



ここ話始めるとだいぶ長いのでまた!😅




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